正直なところ、読まないで済むならば、他の人が書く小説は読まない方が良い(あるいは、読みたい作品ー人に勧められて読みたくなってしまった小説であったり、借りた小説ーがあるなら、読んだ方がいい。読みたくないのに読むようなことがあってはならないというだけのことである。ストレートのテキーラを勧められたからと言って、無理に飲まなくてもいいことと同じように)。
何故ならば、既存の型など無視した方が、あなたの作品があなたの作品のままで存在できるからだ。型など要らないのが、小説である。野球や将棋とは違うのだ。守破離などということをやっていたら、みんなハルキになってしまいかねない。そして、ハルキが読んでいたからと言って、無理にヘミングウェイを読む必要は無い。フローズン・ダイキリを飲むだけで十分だ(あなたが、アルコールを摂取”できない”体質で生まれてしまった、あるいは、まだ未成年者なのであれば、話は別である)。
そして、とりあえず書いてみればいい。「自分ではない誰かの日記」を書けば、それでもう小説になる。お好みの人物を(適当に)作って、その人になったつもりで、あるいは、「その人にはこう書いてほしい」と思うように書いていただければ、それらしくなる。台詞などというものは要らない。台詞を減らせば減らす程、純文学らしくなる。ライト・ノヴェルの場合、キャラクターを立たせる必要があるから、台詞が多くなるのだ。映画で台詞を与えられない登場人物が不憫に見えることを考えれば、わかるはずだ。
比喩表現については、使いたければ使えばいい。ただ、比喩表現を多用すると、「比喩表現を多用する種類の人物が書いた日記」になる。あるいは、「どういう比喩表現を使うかのようによって」、その人物がどのような人物かが決まる。ひとつ言えることは、無理に比喩表現を使うとー特に、小難しいものであればあるほどー、読む側としては面倒な気分になる。
人間には二種類いる。「食事中に貝殻から中身を取り出すというプロセスを必要とするパスタ」を好む人間と、好まない人間である。前者はその「手間」を好むが、後者は好まない。小説も、この話と同じである。面倒な小説を好む人間と、好まない人間がいる。この記事に関しては、前者のような文体ーそれはまるで、ハルキのなり損ないのようなーになっているものの、私が小説を読む際には、逆側の傾向を求める。
あるいは、「理想の自分が書いた日記」、「もし私が逆の性別だったら」ということで書いてみても面白いだろう。好きに書けばいい。
ひとまず言えることは、「人に見せるということを前提としない」、「とりあえず書く」ことが重要であるということだろうか。書いてみて「何かが足りない」と思わないことには、「何を足していいのか」は永久にわからない。
これは陶芸、あるいは粘土細工によく似ている。入門者や初心者は、とりあえず捏ね始めて、それから修正した方がいい。頭に描いたイメージ通りに作れるようになるのは、早くても中級者になってからである。
最後に、村上春樹『風の歌を聴け』の最初の一文を引用しよう。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
何故ならば、既存の型など無視した方が、あなたの作品があなたの作品のままで存在できるからだ。型など要らないのが、小説である。野球や将棋とは違うのだ。守破離などということをやっていたら、みんなハルキになってしまいかねない。そして、ハルキが読んでいたからと言って、無理にヘミングウェイを読む必要は無い。フローズン・ダイキリを飲むだけで十分だ(あなたが、アルコールを摂取”できない”体質で生まれてしまった、あるいは、まだ未成年者なのであれば、話は別である)。
そして、とりあえず書いてみればいい。「自分ではない誰かの日記」を書けば、それでもう小説になる。お好みの人物を(適当に)作って、その人になったつもりで、あるいは、「その人にはこう書いてほしい」と思うように書いていただければ、それらしくなる。台詞などというものは要らない。台詞を減らせば減らす程、純文学らしくなる。ライト・ノヴェルの場合、キャラクターを立たせる必要があるから、台詞が多くなるのだ。映画で台詞を与えられない登場人物が不憫に見えることを考えれば、わかるはずだ。
比喩表現については、使いたければ使えばいい。ただ、比喩表現を多用すると、「比喩表現を多用する種類の人物が書いた日記」になる。あるいは、「どういう比喩表現を使うかのようによって」、その人物がどのような人物かが決まる。ひとつ言えることは、無理に比喩表現を使うとー特に、小難しいものであればあるほどー、読む側としては面倒な気分になる。
人間には二種類いる。「食事中に貝殻から中身を取り出すというプロセスを必要とするパスタ」を好む人間と、好まない人間である。前者はその「手間」を好むが、後者は好まない。小説も、この話と同じである。面倒な小説を好む人間と、好まない人間がいる。この記事に関しては、前者のような文体ーそれはまるで、ハルキのなり損ないのようなーになっているものの、私が小説を読む際には、逆側の傾向を求める。
あるいは、「理想の自分が書いた日記」、「もし私が逆の性別だったら」ということで書いてみても面白いだろう。好きに書けばいい。
ひとまず言えることは、「人に見せるということを前提としない」、「とりあえず書く」ことが重要であるということだろうか。書いてみて「何かが足りない」と思わないことには、「何を足していいのか」は永久にわからない。
これは陶芸、あるいは粘土細工によく似ている。入門者や初心者は、とりあえず捏ね始めて、それから修正した方がいい。頭に描いたイメージ通りに作れるようになるのは、早くても中級者になってからである。
最後に、村上春樹『風の歌を聴け』の最初の一文を引用しよう。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」