「ある意味で、作家と作品とは裏返しの世界である。日常の反動を作品に込めてしまうものだ。あるいは、反動が生じないような生き方をしている人間であれば、その人そのものが作品に出るのだが。」と、僕はあの時言いそびれた。

 人生初の記念すべきサイン会で、望まぬ再会をしてしまった。確かそれは、僕の人生で2番目に僕の恋人になった人物であったように思う。もう会うことは無いと思っていた。よくあることだ。「何故あなたがこの作品を?」という表情をしていた。まあ、そうだろう。そして、時間切れ。頭の中で構築した長い台詞を言う機会を逃した。仕方無いから、このエッセイの序文に書いた。あの人が読むかは知らないが、誰かに読んでもらえればいい。

 アメリカン・スピリッツが日本製になって1年以上の時が経過している。多くの場合、アメリカ製のものが日本製になると歓迎されるが、タバコや楽器──特に、ロック・ミュージックで用いられるもの──は歓迎されない。それと同様、男として生まれた人間が作家だと歓迎されないジャンルに僕は参入した。ただ、これが最後で、次回作は歓迎されやすいジャンルで書くだろう。話は既に頂いている。

 実を言えば、史乃はその2番目の恋人をモデルにしている。その2番目の恋人とやらがどんな奴か知りたくば、史乃の性格を見ていただければよい。
 そして、「あの子にはこういう性格でいてほしかった」と思う人物が光。随分と安直な名前を付けたものだと、我ながら思う。しかし、安直なのは名前だけで、性格の方は自分でもよくわからないでいる。中盤以降、僕にとってはいわゆる自動筆記やチャネリングに近い感じだった。作者は僕だが、人間ではない何かだと思っていただいて差し支えない。ただ、人間界での著作権者は僕である。そして、僕が書いていないからこそ、光は僕の理想的な人物となった。


 そういえば、このエッセイは僕の作品を読んでいない人も読むかもしれないのだった。どこに掲載されるかは知らないが、そうかもしれないのだった。これから読む人のために粗筋を書くか迷ったが、面倒だからやめておく。

 それよりも、編集部が見事であった。「実はこのヒット作は男が書いたのだ」と公表するのがサイン会の現場であった。そして、サイン会の参加要項に、「動画撮影をして、それを公開しても問題無い人」とあった。サイン会は個室で一人ずつ行ったため、たくさんの驚きの表情が撮影出来た。驚き方は人それぞれだと学習した。そして、その驚く映像を使ってまた売った。見事だ。

 そういえば、驚いていない人がいた。無名時代に本名で公開していた小説を読んでいた人だった。もしかしたらあの人かもしれないと思ったとのこと。流石である。ちなみに、現在はその人と同居している。ありがたいことだ。

 
 さて、「エッセイは下手だ」と言われるか、「エッセイの方が上手い」と言われるか、それとも、何の反応も無いか。どうなるか楽しみに本エッセイは幕を閉じるとしよう。同居人は、沈黙を貫いている。