「完璧な人生などといったものは存在しない。完璧な文章が存在しないようにね。」という、どこかの小説で読んだようなフレーズ―それもまた、模倣に見えないようなものであればあるほど良いと思っていた―を最初の行に書きたくなってずっと考えていたのだが思い付かない。そして、そのまま書くことになった。そういう流れだったのだ。
 50℃くらいのお湯でカップラーメンを作る際には、3分では足りない。3分というのは、熱湯を注いだ際の時間設定だからだ。しかしながら、それを待てなくなって、硬い麺のまま食べた。そのような心境である。ある意味ではポティトー・チップスのような歯応えであり、それは僕に歓迎されるもののような気がする。

 そして、僕の食事は、その後の喫煙のためにあるかのようなものであった。マールボロは辞めて、パイプ煙草を吸うようになった。複数の缶、及びパウチ―「石油由来の包」と言った方が適切かもしれない―を空け、その時の気分で選んでいる。
 今回の気分は、サミュエル・ガーウィズ『フル・バージニア・フレーク』であった。薄い板状になっている煙草をパイプに詰め、火を点け、丁寧に吸ったつもり、だった。マールボロとは違い、煙草の機嫌に合わせないことには、良い味は出ない。しかしながら、拗ねた少女のような味わい深さも、そこにはある。味が良いか悪いかは、置いておいて。
 香料を使わず、そして、バージニア葉のみを使用した逸品なのだが、如何せん技術不足で、上手く吸える頻度は低い。守備の良さだけで試合に出続けている捕手の打率くらいに確率をようやく乗せることができた。「2018年シーズンにおける、読売巨人軍でのコバヤシの打率くらいの確率」という固有名詞を出した方がわかりやすいだろうか。コバヤシを知らない人がこれを読んでいる時のために説明すると、「3割打てれば上出来と言われている中で、コバヤシは特に打てない」。それだけのことだ。



 そういえば、僕はこの人生の中で『クソ野郎』と言われ慣れている。そう、言われ慣れてしまったのだ。最初に僕に言ったのは、誰だっただろうか。忘れてしまった。まあ、仕方無い。
 僕が不機嫌な時、あるいは、不機嫌な相手を見て「面倒だな」と思った時、人間関係が切れる。それはまるで、茹で過ぎた太い麺のように。重力に耐えられなくなった様が、僕の人間関係をよく示している。ただ、切れる様子が見えるのは良いことであろう。命綱が切れていることに気付けないよりは、よほど。そのような人間を、よく見てきた。命綱が切れそうだとわかれば、交換すればいいだけのことだ。人間関係も、同じこと。
 僕にとっての人間関係とは何なのだろうか。少なくとも、人間関係を「長く続けよう」とすると、おかしなことになる。コミュニケーションというものは一期一会だ。そのことを、しっかりと覚えておこうと思う。アドリブセッションみたいなものだ。
 偶然にも、あるいは、運命的に長く「続く」人と長く関わればいいだろう。



 僕が何故、小説を書いているのか。ある時の僕は、「自分自身を見るため」などと言っていたように記憶している。
 今の僕は結局、自分で読むための小説を書いている。そのことは間違い無い。自分で書いた小説が一番、読み心地が良い。まあ、当たり前だろう。パクチーとチーズが好きな人間がパクチーとチーズを使った料理を作り続け、そして食べ続けているのと同様に、僕は僕が好きな要素を用いた小説を書いているに過ぎない。
 当然、弊害がある。パクチーとチーズを使わない料理について、どんどん疎くなっていくのだ。外食をする際にはラーメンを食べるものの、あとは、パクチーとチーズを使わない料理について食べることもなければ、見ることすら無い。あるいは、料理番組を見るにしても、「この料理にパクチーとチーズを入れたらどうなるか」だけを考えるようになるのだ。

 そうなってしまったが最後、違う傾向の小説を書けなくなる。僕で言えば、「風景描写」という食材を使わなくなる。書き手(作中でエッセイあるいは日記―僕が小説を書く際、架空の誰かが書いたエッセイまたは日記を書くつもりで小説を書いている。「別の宇宙から受信する」という言い回しをすることもあるが、その場合、手が勝手に動く感覚で書いている―を書いている人間)が、なかなか自宅の外に出ないからだ。あるいは、風景について、興味が無いか。心情描写だけが為される。
 しかしながら、よくよく考えてみたら、そんなに多彩な作風で書ける必要など無いのだ。漫画であれば、月刊誌に一本連載するだけでも重労働である。手塚治虫の真似をできるのは、「漫画を書かないと死ぬ、あるいは、生きている意義を見出だせなくなる病」に羅患した者だけだ。
 「ひとつの作品を完成させるまでは、ひとつの作風だけを維持する。」これで十分なのかもしれない。しかしながら、飽きてくるのだ。

 もし、僕が「登場人物だけ変えて似たような作品を少しずつ書いているような小説家」に見えるのであれば、今回分(3という数字と4という数字の間に書かれた文章に挟まっている文章のことである)の内容が原因かもしれない。同じような食材で、違う料理を作ろうと四苦八苦するようなものだから。



 この文章は僕にとってはエッセイなのだが、あるいは別の宇宙の人間が、これを小説として書いているかもしれない。いや、僕がこうして考えついてしまった時点で、その宇宙は存在している。
 「宇宙が複数ある」という話は、確かクリプキという哲学者によって明示されたはずだ。クリプキという哲学者が存在しない宇宙の場合どうなるのか、とても気になるところではあるが……。

 さて、時々考えることなのだが、「何故、この宇宙の僕として、僕は存在しているのだろう」というテーマが存在する。別の宇宙の、それも、今理想的に設定した別の宇宙にいる僕―自由に使える金が無限と読んで差し支えないくらいにあり、それを有効活用し、最大限人生を楽しんでいて、なおかつ、なろうと思えばすぐにでもメジャーリーガーになれるくらいの運動能力を持っていて、別の宇宙になど行きたくないと思っている僕、というのが最初に思い付いた―として今存在していれば、そんなに都合の良いことは無いのだが、何故かそうも行っていない。これもまた、神の粋な計らいなのだろうか(神がいるかなんて知らないが)
 そういえば、神がどうとかという話をしている中で、「神が脳を作ったとすれば、なんでこんな造りにしたのかしら」という疑問が浮かんだ。いや、どこかの本で読んだのを思い出しただが。
 別の宇宙にいる「完璧な造りをした脳を持つ僕」を考えてみて、「もしかしたら、もっと雑味が欲しくなるのかもしれないな」と思ったが、実際どうだろう。ただ、「何も不満を持たない僕」も、別の宇宙に存在するわけだから、特に何がどうなっているかについてはわからない。

 さて、あれこれと考えてみたわけだが、結局のところ何が言いたいのかはわからない。あるいは、何も言いたくなかったのかもしれない。わからないことについては、少しはわかったかもしれない。


 
 「何も不満を持たないということが不満である」ということも、あるいは有り得るかもしれない。ただまあ、その場合は、「不満を持っていないこと」それ自体が不満ということになるのだが……。
 そういえば、「僕も心が欲しい」と思うようなロボットが以前どこかにいたらしい(哲学の授業の時に聞いた話だったはず)。彼はきっと、既に心を持っているし、実に人間的な悩みである。そのことに似ているかもしれない。
 このことについて、これ以上考えても無駄であろう。「雲をつかむような話」という比喩があるが、あれは、雲が水蒸気からできた水だからである。水を掴むことも、もしかしたらできるのかもしれないが。



 「小説をどうやって書いたらいいのか」という相談を時々――杉谷拳士がホームランを打つ頻度よりは少し多いくらいに――受けている。しかしながら、僕に相談すると、「とりあえず坐禅をして、普段の思考を眺めてみなさい。思考は、勝手に湧いてくるものなのだ。」みたいな話になる。あまり役に立たない。

 ということで(どういうことかわからない人については、わからないまま読んでほしい)、今回は読みづらい小説について考えてみようと思う。読みづらい小説を書くのは得意だ。
 読みづらい小説の条件としては、「知らない単語が出てくる」ということだろう。今回で言えば、杉谷拳士を知らない人は多かろう。「ここ数年でインターネットを騒がせている、野球の上手いお笑い芸人」ということであれば、知っているかもしれない(実際に、プロ野球チームに所属している選手である)。
 さて、杉谷拳士を知っていて「チノパン」という一般名詞を持つ衣類について知らなかった人間がこの世に(あるいは、別の宇宙にも)存在する。何を隠そう、この僕がそうだ。タイトルに『つくる』という名の入った小説を読んでいた際、「チノパン」についてわからないまま読み進め、そして、半分くらいのところで気になって調べたという経験がある。
  
 このように、あなたが当然のように知っている名詞を、他の人が知っているとは限らないのだ。

 ただ、ひとつ言える。知らない単語が多いが故に読みづらい小説は、オシャレに見えることもある。あなたが何を優先したいのか、よく考えてほしい。