『瑚』については、書くのにそれなりにエネルギーを使う。そりゃそうだ。扱っている内容がディープだ。軽い気持ちで書いてはいけない。そう思う。
 実在人物の十数年後の姿、ということで二名(+一人)出てくる。実はこれはややこしいことで、「その人が十数年後どうなっているのか」なんてサッパリわからんのだ。まあ、仕方無いから、「可能性のうちの1つと可能性のうちの1つを掛け合わせた、非常に可能性の低い世界」ということにしておこう。仕方無いのだ。「昨日何を食べたのか」まで、死に際の行動に影響を与えるのだから(「時間は未来から過去へ流れる」という思想を持ち出すのなら、この限りではない。)

 ひとまず、G.川崎にしては珍しく丁寧にやっている活動だから、じっくり見てほしい。ちなみに、「DeepでDopeな人生相談」とやらも、その珍しく丁寧にやっている活動のひとつだから、ぜひ受けてほしい(露骨な宣伝)。


 他方で。女将だかご主人様が出てくるあの手の作品郡については、ほぼテキトーに、思い付いたように書いている。出てくる「僕」は、ほとんどG.川崎そのままだし(しかしながら、私自身は別に料理が得意というわけではないし、家事が得意かと言われるとそうでもない。練習してできるようになったのが、あの作品での姿かもしれない)、女将は、「こういう同居人がいたらいいなー」と思って作ったキャラだからである。ということで、引っ掛かることなく、何を喋るのかが決まる。そう、決まるのだ。私にとってほぼ最高に心地良い世界が、そこにはある。


さて、曲者が

 『遠い距離の居心地』

である。これはなかなかに曲者。なんといっても、とある作品(私が今期唯一見ているあのアニメ)の二次創作(の中でも、夢小説と呼ばれるもの。そして、これはある種の快楽的な悪夢だ。)のつもりで書いて、登場人物の名前だけ変えたからだ。どこかの作品に出てくるあの面倒な女(の中で、一番怖い人)と、初期村上春樹作品の「僕」のパチモンという、非常に面倒な組み合わせである。
 そして、わかったことは、「登場人物について予備知識があろうと無かろうと、別に、作品というものは成立する」ということである。ただし、小説に限るが。


 ひとまず、人生には流れというものがあるのは確かだろう。埋まるはずの時間が埋まらず、なおかつ、これから先の時間がどうなるかわからなかった時間であれこれと書いたのだから。まあ、なんだっていいのかもしれない。

 ちなみに、そのうち書き換えて、固有名詞が出ないようにするかもしれない。まあ、どうでもいいことか。