「なぜ、経験していないことをそんなに自信満々に書けるのか?」と問われて、「経験って、邪魔だから。」と答えたことがある。「経験していないのに書ける」のではなく、「経験していないから書ける」のだ。

ある意味では、何かを経験した後の自分は、何かを経験する前の感覚を失ったとも言える。
多くの親は、自分が子供だった頃の感覚を忘れているし、多くの指導者(特に、教師と名乗る者)は、自分が生徒だった頃の感覚を忘れている。だから、無神経かつ、教わる側、育てられる側の感覚を無視した無神経な教育、というか洗脳が、平然と行われる。あるいは、「自分はこれだけ厳しく育てられたのだから、子供にも厳しくしないといけない。」などと言う。子供の頃、それが嫌だったはずなのに。

まあ、自分の子供や生徒に嫌がらせをしたいだけかもしれないな。

立場は人を変える、のだが、必ずしも、良い方向にではない。スタンフォード監獄実験について調べてみると、なんとなくはわかるだろう。



何より、ひとつの経験は、ひとつの経験でしかない。「他の人に当てはまるか」ということを考えてみると、「人はひとりひとり違う」のだから。野口晴哉が提唱していた『体癖論』を雑に学ぶだけでも、なんとなくそのことがわかると思う。体癖は、複数混ざるわけだし。

また、科学がなぜ『統計』という行為を行うのか、ということも、それである。あるひとつの対象にだけ現象が起こっても、それは真理ではないのだ。真理であるとされるには、再現性が必要となる。まあ、不完全性定理以降、真理という単語をこのように用いるのはどうなのか、とも思うが。



ちなみにだが、この記事は、経験を盾に学問的、あるいは論理的に低級であることを改めないままに人にあれこれ言う愚かな年上の人間に対する経験から来る逆恨みから書いているものだから、あくまで考える材料にする程度に留めておいてほしい。というか、私の記事全て、考える材料でしかない。感じる材料であれば良いな、とも思うが。